七割打者のティーバッティング

文化系クズでホワイト職場のサラリーマンが直感のみで書く雑記。よくて精度70%。仕事風景、恋愛、都市、その他考察など

「歳をとると涙もろくなる」ことと「感動」のしくみ

「歳をとると涙もろくなる」と言われている。チコちゃんが言うには、加齢によって前頭葉が老化し、感情を抑制する機能が低下することと、人生経験を積み重ねたことによって共感力が向上することが理由である。

 

 

共感力とは、他人の気持ちに寄り添う力のことだ。他人の立場や心情は、自らの経験と重ねることによってイメージしやすくなる。その結果、共感力が増す。この力のピークは50代とのことである。

共感力は、最近僕が考えていた「感動のしくみ」に通じる。感動するための要素には、感動する人自身の内面が深く関わっている。

 

自分自身を振り返って、幼年期から青年期まで僕は無感動だった。小学校の道徳の授業は全く理解できていなかったし、国語の教科書に載っている小説も同じだった。悲しい話でも勇ましい話でも、何を入れても心に響かなかった。

中高生になると、与えられるのではなく、自分で選んだ小説を読んだり映画を観たりした。まるっきり感動しないわけではなくなったものの、感動することは少なかった。また、他の人が感動したポイントがよくわからなかった。

こんな青春時代を過ごしたから、自分には感度がないと思っていた。自分は表現を解するアンテナが機能しておらず、人よりニブくできていると。このことは生まれつきの資質の問題であると決めつけていた。

 

しかし、そんな人間が35歳を過ぎて、そこら辺の何でもないことで感動するようになった。

先の共感力の話に照らせば、親が死んだり、可愛がっていた大勢のペットを見送ったり、恋愛が成就したりしなかったり、恋人への狂うような焦燥感や嫉妬心に何年も苛まれたり、友人関係で悶々としたり、サラリーマン組織で浮き沈みを経験したりして、色々なものが刻みつけられており、若い頃より心のヒダが増えたのは間違いない。

また、30年間できなかった「相手の立場を想像する」ことを技術的に習得した感が自分の中にあるのも事実である。確実に、共感力は昔より向上していると思っている。

しかし、例えば歌詞のないクラシック音楽を聴いたときに感動することがあるが、ここに共感はないと思う。意図して表現された芸術作品に直接的に共感した結果感動したわけではない。共感したくてもできないのが現実である。知識がなくて、作曲家や演奏家の意図がさっぱりわからないからだ。それでも、表現の本来の意図と合っているかは別にして、作品によって何かの感情が揺さぶられ、感動に至ることは確実にある。

 

そこで、はたと気づいた。

感動は、芸術作品やスポーツの試合のような対象物それ自体に共感した結果ではなく、それらをトリガーにして自分の中で静かに撹拌され舞い上がった、何らかの記憶や感情、イメージの断片に何かを感じた結果である。

感動の要素とは、実は、外にあるものではなく自分の内面にあるものなのだ。それだから、大人になればなるほど、トリガーさえ絶やさなければ感動するチャンスは増えていく。これは、歳をとって唯一良いところかも知れない。

 

そう考えると、人を感動させる物語を書きたいとか歌を作りたいと思っても、人を感動に至らしめる正解の表現があるわけではない。まさに人それぞれだ。

より多くの人が共通して持つイメージや感情を呼び覚ます、最大公約数的なトリガーは存在する。多くの場合「家族」「死」などがそれに当たるだろう。しかし、人は本当に多様だ。何がトリガーとなって、どのような感情が揺さぶられ、それによってどんな風に感動するか、一人一人異なる。大きくつかめば似たりよったりに見えても、一人一人が全く違う経験と世界観を持っている。

例えば、僕にはふたつ上の兄とふたつ下の妹がいる。さほど珍しくはない構成だが、今まで出会った同性の中で、きょうだいの人数、性別構成、順番、年の離れ方が僕と完全に一致する人物はいなかった。この一事だけでも、僕と僕以外の人が生育環境で見ていた景色は異なっている。仮に、僕のリサーチ不足で本当はいたとしても、親の職業、祖父母の家は遠いか、地元は海が近いか、そもそも同じ学年だったか等、枝分かれはどこまでも続く。

他の生活環境や生まれ持ったスペックがよく似た人間同士であっても、背景のピースがひとつ異なるだけで見ている世界は違ったものになり、その中で生きるうちに沈殿した記憶はオンリーワンのものとなる。そうやって一人一人違う、その内の誰が自分の表現に感動してくれて、誰はしないか、作り手に予見できるものではない。

 

そう考えつつ、あえて人を感動に至らしめる表現の正解を探るとしたら、自分自身が強い感情を込めて表現する、ということになるのだろう。それによってどんな記憶や感情が動くかは受け手におまかせするとしても、表現に、人の内面を撹拌するだけのパワーが必要になるからである。

簡単に言えば、熱意という言葉に置き換えられるだろうか。ブログでも、読まれる文章と読まれない文章の間にはこの差が横たわっていると感じる。

 

 


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